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チョイス1月号 復活第1章 復活にかける執念

チョイス1月号 復活第1章 復活にかける執念
チョイス1月号 復活第1章
復活にかける執念
文=大羽賢二、写真=松岡誠一郎/南条善則
ゴルフダイジェスト 2003年1月


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復活。言葉にするのは、いたって簡単なことだ。だが、それを可能にするためには、いったいいくつもの条件が必要なのだろうか。光すら見えない暗黒の中で、もがき苦しみながらも、それを跳ね除ける不屈の闘志、萎えることの許されないゴルフへの情熱。一人では耐えられない孤独の中で、周囲の暖かい応援も必要なら、ときに叱咤激励も必要であろう。それ以前に、運命ともいうべき人との出会いも見逃すことはできない。邂逅ともいえる人との出会いが、長い暗黒のトンネルに一筋の光明を与えてくれることがある。だが、出会いを可能にするのも、その人の人柄であったり、謙虚で素直な心根であったりしたら・・・・・・。

 復活というたった二文字を現実にする確率は、まったくもって天文学的数字にすら思えてくる。湯原信光の復活劇をつぶさに眺めていると、その思いはいっそう強くなる。
 9月1日、久光製薬KBCオーガスタで、実に10年ぶりの優勝を飾った湯原だが、その優勝を祝福するよりも以前に、その復活に強い驚きとともに、敬意にも似た感慨を抱かざるを得ない。
 「本当に復活したんだ」
 それが、素直な感想である。
 それにしても、日本を代表する稀代のショットメーカーと呼ばれながら、湯原のプロゴルファー人生は、病気や怪我との格闘であった。日大桜ヶ丘高時代は日本ジュニア連覇、日大に進み日本アマを獲得。倉本昌弘、羽川豊とともに「三羽烏」と注目を浴びて80年にプロ入りした湯原は、デビュー年となる81年には関東オープン、ジュンクラシックで2勝をマーク。83年にはフジサンケイクラシックも制し、着々と勝ち星を重ねていくかに見えた。
 だが88年、肝炎に見舞われたことを皮切りに93年には左ヒザ靱帯断裂、さらにそれをかばううちに今度は背中が悪化。さらに96年には左ヒジ・・・・・・。この間、尿管結石で緊急入院したこともある。
 とりわけ93年、シーズン前に断裂した左ヒザ靱帯の記憶は、皇太子ご成婚の祝賀ムードで日本列島全体を包んだ熱気とは対象的に、ひとり苛まれる孤独感とともに、今も湯原の脳裏には鮮明に残っている。
 その前年の92年、札幌とうきゅうとヨネックスオープン広島に勝ち、デビューした81年以来の年間2勝をマーク、復活に狼煙をあげた湯原にとってはなおさらだった。
 「このまま終わってしまうのか?」

という不安が、ゴルフ人生で初めて現実のものとして襲ったきた。3ヵ月ギプスで固定したために、筋力も落ち、やせ細った左足は、不安を助長するには十分だった。 それでも93、94年シーズンと、ぎりぎりの50位代ながら、シード権を守ったのは日本を代表するショットメーカーのなせる業でもあったのだろう。だが、 「イマイチ、自分のイメージしているボールが打てない。なんとかごまかしてゴルフをやっていたのだが、その苛立ちの方がボクには大きかった」

トイレに行くこともできなかった自分を支えてくれた家族と、ゴルフができることに感謝している。いま、病気やケガは 神様が与えてくれた試練だったと思う。

チョイス1月号 復活第1章 復活にかける執念
 
激痛と痺れ。
そして衰えていく自分に涙が止まらなかった。

 95年は、優勝争いにも何度か顔を出し、賞金ランクも20位までに復活した。この年、スポーツ番組のキャスターを降板したのも、なんとか「自分のボールを取り戻したい」との思いからだった。しかし「ごまかしながらのゴルフ」の代償は大きかった。次第に背中の痛みを慢性化させ、左ヒジに激痛を走らせるまでになっていく。
 そして96年1月・・・・・・。
「練習中、背中にバキッという音がした。自分の耳にもはっきりと聞こえました」
 激痛が走り、その場かにかかみこんだまま動けなくなっていた。椎間板ヘルニアの発症だった。ごまかしながらのゴルフのために、酷使し続けた肉体が、とうとう悲鳴を上げたのだった。
 その後、約2ヵ月にわたり、湯原は病院のベッドで過ごすことを余儀なくされた。「もうゴルフ以前の話でした。もう一度ゴルフができるとか、復活するんだという前に、人生で味わったことのない激痛でした。こむら返りというのが、あるじゃないですか。あれが24時間続くものと思ってください。激痛で眠ることもできなければ、食事だって喉を通らない。寝返りを打つことすらできない状態だったんです。」
 自力でトイレに行くこともできなかった。トイレでは一度座れば、立ち上がることすらできなかった。夫人の付き添いなしでは、生きることすらままならない状態だった。
 24時間、痛みと痺れが襲った。ステロイド剤を点滴し続けたのは、「ゴルフ以前」と湯原がいうように、点滴なしでは痛みに耐えられない状態だったためだ。副作用も覚悟の上だった。ゴルフのことを考えるより前に、襲い続ける痛みをどう受け止め、克服するかがすべての問題だった。
 病院に何人もの友人が見舞ってくれては、励ましの言葉を与え続けてくれた。しかし、湯原の耳には慰めしか聞こえなかった。病院を見舞う友人たちの表情には、「湯原はこれで死んでしまうのではないか」という不安が現れていた。それは自分自身が、一番、わかっていたことでもあった。78キロあった体重は15キロ近くも落ち、何より夫人に「もう殺してくれ」と叫び続けたことも二度や三度ではない。 初めて入浴許可が下りた2ヵ月後、風呂の洗い場でとめどなく涙を流す湯原の姿があった。鏡に映る自分の姿。それを正視し、自分の体だと理解するまでに時間がかかった。自慢の筋肉は削げ落ちて、骨と皮だけの姿がそこにあった。「自分はこれで終わってしまうのか。」そう思うと、涙はとめどなく流れ続けた。
 しかし、一方で、湯原はまったく別のことを考えていた。どうして自分はゴルフを始めたのだろう。周囲の反対を押し切ってまで、日大ゴルフ部を選び、そしてプロゴルファーになったのだろう。
輝いていたあの日に戻りたい。
だから耐え、頑張れた。

 あれは、ゴルフを始めたばかりの小学生時代のことだった。近所の練習場に陳清波がやってきたことがある。加速しては伸び上がる弾道に、これが本物のゴルフかと魅せられた。勉強をしないとクラブを握らせてくれなかった父親。学校から帰ると、真っ先に宿題を終え、練習場にあるいはクラブ工房へと足を運んだ小学生時代が、懐かしくも輝かしく思い出された。牧野裕とともに慶応に入り、強豪日大を破るのだ、と意気込んでいた中学時代。だが後述する日大ゴルフ部監督の故・竹田昭夫に、「大学生と一緒に練習させてやる」の勧誘の言葉に、慶応義塾高の受験票を破り捨て、日大桜ヶ丘高を選んだあの日。母親に大泣きされながらも、日大を選んだ情熱とはなんだったのだろう。大学卒業を間近にして、やはり故・中部銀治郎との会話も思い出す。「おまえがプロになってしまったら、日本のアマチュアゴルフ界の未来は、いったいどうなってしまうんだ」
 そんな言葉を真摯に受け止めながらも、プロの道を選んだあの日。考えれば考えるほど、湯原の中には、こんな確固たる思いが沸きあがってきた。
「オレはゴルフが誰よりも好きだったんだ。生活のためにゴルフをやるんじゃなく、面白そうだからゴルフにのめり込んだ。あの時代に戻りたい」
 リハビリを開始したのも、ようやく痛みが和らぎ始めたその時期、腰に激痛が走ってから2ヵ月後の時期からである。リハビリといっても、夫人の付き添いで病院内を歩くことから始まり、2~3歩進んではかがみこむ、というところからのスタートだった。ようやく外に出られるようになったときも、夫人と夫人が手にする折り畳みの椅子は、湯原にとってはなくてはならないものだった。歩くよりも、椅子に座ることの方が長いリハビリであったが、すべて「あの頃に戻りたい」という思いからであった。 「オレはゴルフが好きなんだ」
 そうした確固たる思いこそが、その後、長い道のりになるリハビリ生活に耐える、唯一の支えでもあった。
 人との出会いは、復活の大きな条件でもあろう。湯原自身は痛みに耐え切れず、実は体にメスを入れる手術の道を望んでいた。切ってしまえばこの痛みから逃れられるとの思いからだった。最終的にPNFという保存療法を選択したが、それは10年来の付き合いのあるトレーナー、市川繁之の薦めからだった。 「薦めというより絶対にメスを入れないでくれ、という強い姿勢だった。メスを入れても完治しない。だったら、PNFで絶対に治す。そこまでいわれれば、市川さんのその言葉を信じるしかないですから」
 気の遠くなるようなリハビリに耐えられたのは、湯原の体を隅々まで知り尽くしている市川の存在も大きかった。4月(99年)いっぱいで退院、なんとか夫人とともに近所を散歩するところから、6月にはようやくサンドウェッジを振れるまでに回復した。復帰戦は6月末のミズノオープン。「リハビリがてら、試合に出てみれば」という市川の言葉がきっかけだった。
 光が見え始めた。だが、まだ本来の自分ではないことに不満があった。

新しいアイアンクラブが届いた。打ってみた。自分のショットイメージを具現していると感じるものだった。その週、10年ぶりに優勝を果した。

この試合で予選通過を果たした湯原は、「なんとか復帰できるのかな」という自信を持つまでになった。さらにその年、小樽CCで開かれた日本オープンで、尾崎直道と優勝争いを演じ、2位に食い込む大健闘を見せた。この年のパーオン率は4位。続く00年、01年は1位に輝き、誰の目にも復活を印象づけた。
 だが、この状態にことさらストレスをためていたのが、他でもない湯原自身でもあったのだ。というのも、ヘルニアの後遺症から左足の親指には、まったく力が入らない状態。稀代のショットメーカーだけに、微妙なボールの回転、距離のずれ。イメージ通りにならないギャップが、ストレスとなって湯原に襲い続けたのである。
 「小さい頃からゴルフをやっているために、幸か不幸か微妙なズレを敏感に感じ取ってしまうんです。万全な調子でなくても、グリーンを狙って打つことはできる。パーオン率はそれを証明しているのだけれど、これは自分のゴルフじゃない。優勝争いをできるゴルフじゃないこともまた、自分が一番理解できてしまうんです」
 それは湯原自身を悶々とさせる、新たな悩みのスタートでもあった。そして、これを解消してくれたのも、湯原の体の動きを知り尽くす市川トレーナーと同様、00年暮れ、ある人物との運命的な出会いをする。アメリカ人コーチのジョー・ティールの紹介で、出会った渕脇常弘がその人物であった。 「もう一人、湯原信光がいて、スウィングを見てくれたら、微妙な感覚を思い出せる、すぐに復活できるのに、と思っていた。その時に現れたのが、渕脇さんだったんです」
 渕脇は高校時代、剣道で日本一に輝いた経歴の持ち主。その後、ボクシング転向を経て、海外の有名コーチに師事しゴルフのインストラクターになった人物である。ゴルフのインストラクターを目指した当時、湯原のスウィングを理想モデルにゴルフを学び、そのレッスン書を食い入るように読んだという、不思議な縁で結ばれてもいた。それは湯原が望んでもいた、「もう一人の湯原信光」でもあった。
 「剣道で日本一に輝いた実績も示すように、渕脇さんは動体視力がなによりもすごい。スウィングを見て、すぐにボクのストレスの原因を理解してくれた。グリーンに乗せることはできても、ピンを狙っていくことのできない、その微妙なニュアンスをです。渕脇さんもまた、そうした微妙なニュアンスが、言葉ではなかなか選手に通じないことで悩んでいたようです。ボクにとっては、その安心感が何よりも心の支えになりました」
 また、渕脇の所属する国際環境代表、大原隆は、メンタル面で「勝てる状態」を作り出すことに大きな支えとなった。大原は微弱電流による波動で、精神状態、脳波、ストレス、代謝状況などをすべて数値化。これによって、湯原は睡眠時間から栄養、運動量などをコントロールしていく。さらにクラブについては、ブリヂストンの担当者が湯原の要求に応えようと奮闘した。
「ボクは周囲の人に恵まれている」
と、湯原はいう。市川、渕脇、大原、そしてブリヂストンの担当者は、誰からというわけでもなくいつしか「チーム湯原」を結成していた。昨年暮れ、湯原の下に「3日間だけ時間をくれ」との渕脇から電話が入り、湯原を含めた5人が集い、復活のためのミーティングが開かれたのも、ごくごく自然の流れだった。

88年肝炎、93年左ヒザ靭帯断裂、96年左ヒジ、尿管結石で緊急入院、99年椎間板ヘルニア・・・。ゴルフが好きだったから病床は辛かった。好きだからこそ復活できると信じていた。

手応え、そして優勝。
自分の「夢」が見えてきた。

 9月1日、KBC久光製薬で湯原はツアー7勝目を挙げた。92年以来、実に10年ぶりの優勝であった。練習日には、湯原自身のデザインした新しいアイアンが届けられた。チーム湯原の復活のシナリオが、形となったひとつでもあった。一方で大会初日には、恩師の日大ゴルフ部の竹田監督の訃報が届く。最終日、湯原は、痛みに悩まされ続けた腰に喪章をつけて戦った。毎年、年賀状に「年間2勝」をノルマとして与え続け、誰よりも復活を期待していたのが竹田でもあった。最終日の13番、12メートルのイーグルパットは、そんな竹田の思いを乗せるかのように、カップに吸い込まれた。18番でウィニングパットを決めた湯原は、ボールをそっとポケットに忍ばせると、竹田の棺に収めている。
 「竹田監督や中部さんが、ボクの背中を押してくれて優勝できたんだと思う。復活というまでには、まだまだ山の5合目くらいで、課題は山ほどあります。けれどこの状態で優勝できたのは大きな自信だし、自分の理想とするゴルフ、ゴルファーに向かって、まだまだやるべきことは多いし、やってやろうという気持ちが再確認できたことが何より嬉しい」
 と、湯原。これまでケガや病気もあって、封印してきたアメリカへの挑戦も、具体的な目標になって見え始めてきたという。 「道具の進化や予防医学の進化によって、選手寿命は長くなっている。45歳で、まだまだ夢に挑戦しようと思えるゴルフを選んだことに、つくづく幸福を感じます。ゴルフはボクにとって、人生最高の遊び道具のような気がします。もしかすると神さまが、こんな風にやってみたら、こんな風にしてみたらと、課題を与えて続けてくれているんじゃないでしょうか。そう思うと、ケガや病気もまた、神様が与えてくれた課題だし、まだまだやれるとの思いは、神様が与えてくれたご褒美だったのではないでしょうか」
 復活。湯原がこの二文字を可能にしたのは、「ゴルフが好き」という萎えることのない、情熱だった気がしてならない。

課題は山ほどあるが、やってやろうという自分の気持ちが確認できたことが何よりも嬉しい。45歳のいま、具体的な夢も見えてきた。

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