市川繁之 鈴木克憲 織田淳太郎
光文社新書 2006/10/20
市川繁之。理学療法士の彼は『国際PNF協会』が認定するアジア唯一のPNFインストラクターである。
PNF (proprioceptive neuromuscular facilitation) すなわち「固有受容性神経筋促通法」である。
詳細は第二章に譲るが、PNFとは人体に存在する感覚受容器を刺激することで、神経や筋肉 (神経筋) の働きを高め、身体機能を向上させるリハビリ技術である。
感覚受容器には、脳からの指令を受け、自分の担当する筋肉箇所を動かすという媒体的な機能がある。つまり、最初に「脳ありき」で、別の表現をすれば、PNFとは、その感覚受容器に抵抗、圧縮などの負荷をかけることによって、そこに生まれた力学的情報を脳へと送信し、情報そのものを脳に学習させるという、いわば逆説的な筋肉強化の手法とも言えるだろう。
そして、ここで市川が持つもう一つの特筆すべき“顔”に触れなければならない。 国際PNF協会において、彼がPNFをスポーツのパフォーマンス向上に応用する唯一の理学療法士だということである。
中略
*斉藤仁選手へのPNF
市川はその昔、電電関東(現NTT東日本)の野球部で捕手を務めていた。その後、東京衛生学園リハビリテーション科に入学し、昭和58(1983)年、同学園を卒業。同時に理学療法士の国家資格を取得した。
同60(1985)年には米カリフォルニア州バレーホにある『KFRC (カイザー・ファウンデーション・リハビリテーション・センター) 』に留学。PNFの六カ月コースを修了し、その後、ヨーロッパに本部を置く国際PNF協会が認定するインストラクターを目指した。
同61 (1986) 年、東京・西葛西にある森山脳神経外科病院のリハビリテーション部のトップとなる。ここから市川の日本におけるPNFの普及が本格的に始まることになる。
中略
現在、世界には約70人の国際PNF協会認定インストラクターが存在するが、当時にあってPNFをスポーツの故障の治療とそのパフォーマンス向上のために応用する者は皆無だった。ちなみに、PNFをスポーツに利用する国際PNF協会のインストラクターは、いまも市川しかいない。
市川が補足する。
「PNFのスポーツへの応用は、アメリカでもまったくと言っていいほど普及していません。なぜなら、元々PNFは麻痺などに対する運動療法の技法で、いまでも障害者のリハビリテーションに用いられているからです。
KFRCに研修にくるPT (理学療法士) は、ほとんどが傷害者のための治療法の習得が目的で、その大半がリハビリの世界に帰っていく。スポーツ界から障害者のリハビリの勉強のためにくる者はいません。
また、アメリカでは、スポーツ界で正当なPNFを学んでいる者も、ほとんどいないのが現状です。仮にPNFを使うPTがアメリカのスポーツ界にいるとしたら、おそらく学生時代にほんの数時間程度習った程度の知識で行っているはずです。
そういう意味で、アメリカでPNFのスポーツ応用が皆無に近いのは間違いありません。 実際、のちに私はメジャー入りした野茂 (英雄) 君にPNFを施していますが、その効果の現れ方にKFRCのスタッフも驚いていました。
ただ、柔道の斉藤君に関しては、私もスポーツへの応用が初めてだったので、さすがに不安がありましたね」
同年、斉藤は日大駿河台病院で右膝半月板の手術を受けた。「それまで、私の専門といえば、脳卒中のリハビリだった」という市川が、斉藤に対するPNFを開始したのは、その手術の三日後のことである。
第一章より抜粋
市川はこのPNFをスポーツパフォーマンスに応用した、唯一の国際PNFインストラクターである。巨人の松井秀喜を早期復帰させたように、スポーツ応用の目的の一つは、 アスリートに対する迅速なリハビリだが、一方ではアスリートのパフォーマンスにおける筋活動の協調性をチェックしたり、協調性を生むための運動法に関する指導をしたりもする。
また、筋活動の協調性の欠如から弱っている筋肉群をいち早く察知。PNFによって、故障を食い止めるという役割も担っている。
第一章でも説明したが、市川が最初に手がけたアスリートは、柔道の斉藤仁であり、彼はその後、ソウル五輪での日本柔道唯一の金メダリストに輝いた。その斉藤復活の 秘密を聞きつけて、市川の許にいち早く駆けつけてきたアスリートがいる。
プロゴルファーの湯原信光。斉藤がソウル五輪の金メダリストになってからまもなくの、昭和63 (1988) 年秋のことである。
湯原は日大時代の昭和54 (1979) 年に『日本アマ』を制覇。プロ二年目の同56 (1981) 年には『関東オープン』と『ジュンクラシック』を立て続けに制覇すると、同58 (1983) 年には『フジサンケイクラシック』でも優勝。プロデビュー四年目にして早くも三勝をマークし、「どこまで勝ち星を増やしていくのか」と、関係者を唸らせた。
だが、このプロ四年目を境に、彼は突如として勝利から見放されることになる。数年にもおよぶ泥沼の不振と背筋痛への喘 (あえ) ぎ。
「開幕までに間に合わせてもらいたいんです」
これが、市川に突きつけた湯原の要望だった。
市川の熟練された指先が、湯原の肉体を触診した。そこから微妙な歪みを敏感に察知し、さらにその歪みの神経遮断箇所と協調する筋群を次々に探っていく。それが特定されると、治療に関する湯原とのインフォームドコンセント (説明に基づく同意) を経て、PNFが施された。
市川が口にする。
「腰椎 (腰骨=背骨の下のほう) というのは前後にはよく動きますが、あまり捻ったり回したりすることはできない。回っているのは実は股関節なんです。
一方、胸椎 (背骨の上のほう) は回したり、捻ったりしやすくできている。でも、 この胸椎が正しく回っていないと、脊椎に付着する筋肉が緊張してしまうわけですね。
湯原プロの場合、その胸椎に過剰なストレスを与えていたのでしょう。背筋の上の ほうが固くなってましたね。具体的には、菱形 (りょうけい) 筋と僧帽 (そうぼう) 筋という筋群が過剰に使われ、脊椎周辺の筋肉が異常な緊張状態にあったのです。
筋肉というのは運動して動くものです。でも、一カ所でも連動が阻害された場合、 他の筋群にも悪影響を与えてしまう。そうなると、スイングに必要な肩甲骨まで、うまく動かなくなるんですよ。
つまり、脊椎の動きが肩甲骨の動きにうまく対応せず、背中の筋肉が固まってしまったというのが、私の湯原プロに対する判断でした。
しかも、湯原プロのようなハイレベルのゴルファーになると、本能が働くというか、 インパクトの瞬間にミスを察知し、瞬間的な軌道修正を行ったりする。これが筋肉の どこかに急激なブレーキをかけることになり、筋肉のストレス状態を生み出す原因に なったのでしょう。
でも、裏を返せば、瞬間的な軌道修正ができること自体、一流の証なんですよ。ヘタクソな人は軌道修正なんてできない。腰で回そうとするから飛距離はでないし、すぐに腰痛になってしまう (笑) 」
第三章より抜粋
湯原に対する市川のPNFは、まず筋肉の緊張という”邪魔者”を取り除くことから 始まった。人のもつ反応特性を利用し、抵抗、圧縮などによって、肩甲骨をあらゆる方向へと動かし、癒着したように凝り固まった筋肉の張りを取っていくというプロセスである。
さらに、スイングにおける筋肉の連動を考えたとき、胸椎のどこに動きの支点を作るかも重要だった。これによって、スイングの加速がスムーズに促され、脊椎やその周辺筋肉へのストレスも最小限に抑えることができる。
三カ月後、シーズン突入を直前にして、湯原の背筋痛は嘘のように治まっていた。彼はそのままツアーを転戦したが、その合間を縫って、たびたび市川の許を訪れた。背筋痛予防のためのメディカルチェックとフォームのチェックのためだった。
「しかし、ゴルフはメンタルなスポーツです。メンタルがフィジカル面に大きな影響を与える。スポーツ心理学でもよく言われますが、”悪魔の囁き”が自分の感覚を信じ させなくしてしまうわけですね。
構えた瞬間、すべての情報を感覚的に把握しているのに、『右から風邪が吹いている から、こっちはまずいぞ』などという思考が働いてしまう。肉体の感覚を疑って、再び思考に頼ってしまうから、かえって体が硬直してしまうんですよ」
この”悪魔の囁き”からも解放されたのか、市川のPNFを受けてから約一年半後 (平成2年) 、湯原は『ポカリスエットオープン』を制覇。七年ぶりの男子ツアー優勝を成し遂げ、以後、復活への道程を歩み始めていく。
*腰痛の治療
斉藤と湯原の復活へのプロセス。噂は新たな噂を呼んだ。市川のPNFの存在はさらに他のアスリートに広がり、その一部の人たちが、密かに彼の許を訪れた。
柔道の古賀稔彦、マラソンの有森裕子や増田明美、テニスの松岡修造、大相撲の若貴兄弟や栃東、大翔山、バレーボールの中田久美・・・・・・多くの一流アスリートが市川を訪れると、その”神の手”に復活やパフォーマンス向上への道を託した。
なかには巨人の松井同様、日本の注目を一身に集めた大物アスリートも何人か存在する。 その一人が大関 (当時) 貴乃花である。
中略
貴乃花が横綱昇進 (平成6年11月) を果たしたのは、それからまもなくのことである。優勝22回。基本に忠実な押し相撲で『平成の大横綱』と呼ばれ、平成15 (2003) 年1月場所を最後に、彼は満身創痍のまま引退した。
この貴乃花が市川のPNFに頼っていた頃、さらにもう一人の大物アスリートが市川を訪ねてきた。
野茂英雄── 。プロ野球選手のメジャー挑戦へパイオニアの的存在になった「奪 三振王」である。
第三章より抜粋