ノブの愛称で人気の高い湯原信光プロも今年の8月で50歳となる。30代後半から体の故障に泣かされ続け、遂に椎間板ヘルニアになって歩くこともままならなくなったときは、本気でゴルフを辞めようと思ったと言う。しかし湯原プロはゴルフを諦めなかった。自分だけがわかるゴルフの感覚を取り戻そうと新たな挑戦を行っている。希望に 燃える新境地を聞く。
文●本條強 写真●北川外志廣
メリディアンホテルに現れた湯原信光には、華やかな明るさが体全体から発せられていた。褐色に焼けた肌、輝く表情。それは彼がプロになってすぐに、関東オープンとジュンクラシックに優勝したときのような若々しいものだった。
「僕はね、僕の新しいゴルフを作ろうとしているから、毎日、充実しているのかもしれませんね」
この夏に50歳となる男が、にこにこしながらいきなりそんなことを言うのである。
正直、驚いてしまった。ここ数年、まったくと言っていいほど湯原はツアーで活躍していない。シード権も失い、昨年は出場できた試合が僅か8試合。すべて予選落ちで、獲得した賞金は0である。
7歳からゴルフを始め、霞ヶ関・東コースで行われた日本ジュニアを、アマチュアのコースレコードである67を出して優勝。日大時代には日本アマも制覇している。日本ゴルフ界のサラブレッドはプロ入りしてからも順調に勝ち星を重ね、その爽やかな 風貌は「若大将」のニックネームが本当に似合っていた。
しかし’92年のヨネックスオープン優勝のあと、度重なるケガや故障で思うようなゴルフができなくなる。当然、勝ち星は遠く離れていく。
「手首や肘に痛みが走るぐらいはまだよかった。肩胛骨が動かなくなり、靱帯を切り、ついには椎間板ヘルニアになって歩くことさえできなくなりました」
若大将から笑顔が完全に消えた。輝きも失われ、口から発せられる言葉は「ゴルフを辞める」。引退の2文字である。すでに同期の天才ゴルファー、羽川豊はクラブを捨てていた。
「椎間板ヘルニアのときは、丸2ヶ月間、ベッドに寝たっきり。腰に激痛が走るから、殺して欲しいとさえ思いました。75kgあった体重も60kgにまで減って、見舞いに来た友達が『あいつ、死ぬんじゃないか』と思ったらしいのです」
憔悴しきった顔にはまるで生気というものがなかった。実際、湯原はこのとき一度死んだのかもしれない。退院してもゴルフのできる体ではもちろんない。医者からは「本当に治したいのであればゴルフを辞めることだ」とも宣告されたのである。湯原も思うに任せぬ体をもてあまし、その後も「ゴルフを辞める」を連発する。
しかし実際の湯原はどうだったのか。口では「辞める」と言いながら、いつの間にかリハビリに精を出す自分がいる。怖々ではあってもクラブを振ってしまう自分がいる。腰を痛めないようにプレーする方法を模索する自分がいるのである。
「ゴルフをしたくない、試合にも出たくないと思っても、これまで支えてきてくださった人から出てくださいと言われれば出ないわけにはいかないでしょう。で、嫌々ながら出てみると、面白いことに、これまでには知る由もなかったことを実にいろいろと知るんです。もちろん体力や筋力が落ちているから40ヤードも50ヤードも飛距離が落ちている。腰が悪いから足が痺れて、どう振っているのかよくわからない。子供の頃から持っていた感覚がなくなってしまっているのでパニックにもなってしまいます。
しかし、実際のショットの結果は悪くなかったり、優勝争いをしたりもする。不思議なことが起こってしまうのです」
湯原が椎間板ヘルニアになったのは’99年春。しかし翌’00年にはツアーでのパーオン率は第1位。そしてその翌年も同じ部門で1位に輝いた。 「もともとアイアンが得意だったから、パーオン率は良かったと思います。ヘルニアをやる前の年も1位だったと思うしね。でもヘルニアをやる前と、なった後では同じ パーオンといってもまったく違う。なる前は狙ったところに突き刺さるといった感じでアイアンを打っていた。でもなったあとは狙ったところと違うところにオンしたり する。それもイメージと違う球で。だからとても気持ちが悪い。周りはヘルニアから生還して、何を文句言ってるわけって感じですよね。グリーンに乗っているんだからいいじゃないかと。でも僕にしてみたら、変だ変だ、気持ち悪いって。でも何でそうなるのかを考え出したら、逆にそれが面白くなってきたわけです。新たな自分探しというか、余白がいっぱいできちゃったというか。その余白を埋めることが生き甲斐のようになってきたわけですね」
こうして湯原は’02年に10年振りの優勝を成し遂げてしまう。もちろん、腰痛は完治していない。痛みを誤魔化しながら、気持ち悪さのあるスイングとショットを抱えながら優勝してしまうのである。
ゴルフの面白さ、摩訶不思議さ。
湯原はゴルフを辞めるどころか、ますますゴルフにのめりこんでいく。
「僕はね、若いときから理論家のように言われてきたけれど、理論が先にあって自分のゴルフを作ってきたわけではないんです。むしろ感覚が先にあって、理論武装していったというほうが正しい。何故なら初めてクラブを振ったときからちゃんとボールに当たったからです。空振りなんて、一度もしたことがないくらい。だから本当はどうやれば上手く当たるかなんて、ヘルニアになるまで考えたこともなかったんです」
湯原は幼稚園に通う頃になると、父に連れられてゴルフ場に行った。昆虫採集がゴルフ場での最初の楽しみだった。その後、父を待つ間に練習グリーンでパットをするようになった。一緒に遊んでくれたのはクラブのヘッドプロのであった石井茂プロ。 知る人ぞ知る川奈一門の総帥、日本のプロの草分け的存在であり、杉本英世や草壁政二らの師匠でもある。幼い湯原はパットでボールを転がしながら、自然とヘッドにボールを当てることを覚えてしまったのかもしれない。小学生になってからクラブを振り始め、中学生になってからは全国でその名を知られる存在となり、高校では冒頭で述べたように日本一になってしまう。
「ゴルフはプレーすることも楽しかったけれど、それよりも子供にとって、大人の世界を垣間見られることが面白かった。例えば父の友人で食通の人が鰻の食べ方を僕に見せる。鰻が運ばれてくると蓋を開け、山椒を鰻にかけるのではなくその蓋にふる。最初は鰻だけを食べ、味を知ったうえで、それに合わせて蓋の山椒をつけて食べる。怪訝な顔をする僕に向かって、『ノブちゃん、味も分からないうちに適当に山椒をかけてはいけない』と言うんです。これって、物事を習慣だからと何も考えずにやってはいけないということですよね。確かめもせずに、鵜呑みにしてはいけないということなんです」
こうしたことはもちろんゴルフにも当てはまる。自分で確かめも考えもせずに、それが正しいものだと思ってスイングしたりショットを行ったりする。ただルールだからと何も考えずにルールを守ることだけを大切にする。マナーでも同様だ。どうしてそんなマナーがあるのか、考えもせずにやらなければならないと思う。しかしそれに はすべて道理があるのだ。
「普通の生活をするにもゴルフをするときにも、僕はゴルフの本質というものを考えるようになりました。ゴルフの本質とは何か。石井茂プロはゴルフの本質を絶えず問 いかけてくる方でした。幼かったときには気さくなおじさんでしたが、青年になってからは、何故そうしなければならないのか、何が本当は正しいのかといったことを考えさせてくれる方でした。いいショットをする、いいスコアであがること以上に大切 なものがゴルフにはあり、それを学ぶように言われたのだと思います」
そしてそうしたゴルフの本質を知れば、自ずといいショットが生まれ、いいスコアであがれるプレーヤーになれ、ひいてはいい選手になれるというわけである。
「また、僕は子供の頃からの経験で、いつしか何事もしっかりと観察をするということが癖になりました。人でも自然でもなんでも。まずはその物自体をよく見なくてはいけないと。それで自分なりに考えなくてはいけないというふうに。小学生のときからそれが感覚的にも鋭くなりました。ある日、先生が日本地図を生徒全員に配ったんです。それには北海道の海にタラバガニが描かれていました。でも僕はそのカニの絵 を見た途端、何かが違うと思いました。先生に『この絵、おかしいよ』と告げましたが、公に学校が配布しているものです。先生は正しいと信じています。しかしあまり にも僕がしつこく言うので、地図屋さんに、蟹の絵が合っているかを確かめたのです。すると、なんと足の数が間違っていたのです。蟹は毛蟹など普通は10本足なのですが、タラバガニはヤドカリ科なので8本足が正しい。その絵のタラバガニは10本足だったのです。これと同様に、ゴルフでも一度見れば瞬時にいろんなことがわかってしまい ます。それも感覚的に。僕はそうしたゴルファーだったんです」
湯原はショットに関してこんなことを言っている。
「例えばグリーンを狙わなければならないアイアンショット。僕は構えたときに足の裏から体全体に感じるものがあって、その感覚をすべて生かし切って打ちます。だから微妙な傾斜も自然に感じ取ることができますし、その傾斜に合わせて自然にショットも繰り出されます。ドローしたり、フェードしたりというのは意識的にしているのではなく、自然にそういうショットになってピンに絡むわけです。こういう傾斜だからこういう構えをして、こういう球筋で攻めるのが正しいと考えて打っているわけではありません。自分の体が感じたまま、正直に打っているだけなのです」
すなわち、湯原は天性のゴルファーなのである。
「球さばきが抜群だといろいろな先輩方から言われました。どのような難しいライからでもたやすく打ってしまう。右手が器用だったのかもしれませんね」
スイングと弾道は陳清波プロを真似たのだという。
「自宅の近くの練習場で、陳清波さんが練習していました。少年の僕にはとにかく素晴らしい弾道のショットでした。ライナー性の、強く勢いのあるボールでした。スイングもきれいで歯切れがあって。こんなスイングでこんなショットが打てたらいいな と憧れました。そしていつしか自分もそんなスイングとショットを打ちたいと、猛練 習をしたわけです。若いときも、そして今でもそのイメージは変わりません」
確かに言われてみれば、歯切れのいいスイングと糸を引くような弾丸ライナーは、若大将の頃からの湯原のトレードマークである。腰を痛めたあとの今でも、それはなにも変わっていない。変わっていないところがまた素晴らしいのである。
しかし、そうした生まれながらの感性のゴルファーであった湯原から、椎間板ヘルニアはその感性を奪い取ってしまったのである。湯原が「ゴルフを辞める」と言う背景には、腰が痛いからといった肉体的な問題以上の大問題があったわけである。
「治療してリハビリして、クラブは振れるようになりました。しかし腰痛は残っているし、足の痺れはとれない。神経が足の裏にまで行かないから、これまでのような感覚がないので、どのように振ればいいかわからない。でも経験が豊富にあるから、体がそれを覚えていて、打つことは打てるわけです。グリーンにもボールは乗る。でも先程も言ったように狙ったところとは違うし、弾道もイメージしたものとは違う。とっても気持ち悪いわけです。だから求めるものは、なんとか気持ちよく打ちたいということになります。しかしこの感覚は誰に話をしてもわかってもらえない。周りの人は程度の差こそあれ、ゴルフを何かしら学んで今があるわけです。しかし僕はやりたいようにやってきただけなんです。構えたときにわかるいろいろな感覚を体が感じて、その通りにやっていい結果が出ていたわけです。でもこれって実は自分だけの世界で、だからこそ自分一人が頼りだったわけですね。それが腰を痛めてからわかったわけです。しかしそれに気がついてもどうしようもありません。自分でその感覚がわからなくなってしまったのだから、誰かに相談するしかないわけです。でもわかる人は周りには誰もいないのです。ならば一からゴルフを習おうといろいろな人から教わりました。が、残るのはストレスだけ。僕が求めているのはアドレスやスイングの形ではないんです。ボールの位置とかスイングプレーンではないわけです。感覚なんですね。そういえばゾーンという言葉が流行ったときに、ジャンボ尾崎さんが言っていました。『そんなものは机上でわかるものじゃない。自分でできる人間が一番わかるんだよ』って。まさにそういったことでした。
四面楚歌だった湯原の前にある人物が忽然と現れた。渕脇常弘。湯原よりも2歳年下のゴルフインストラクターである。高校時代は剣道で日本一になった男であり、大学時代はボクシングジムに入り、全日本ライト級新人王ににもなっている。強豪の多いメキシコに渡り、世界一を嘱望されながら、ある日ボクシングに嫌気がさしてきっぱりと縁を切ってゴルフの世界へ。湯原のスイングとショットに感じるものがあり、やがて二人は必然とも言える出会いを遂げる。
「初めて会ったときにね、渕脇さんが僕のスイングを見て、湯原さんは今こんな感じだったんじゃないですかと言うんだ。びっくりした。まさにそうだったから。誰に話してもわかってもらえなかったことを彼が初めて口にしたわけです。同じように思える人間にようやく巡り会えたんだと思いました。で、なんで彼がわかるんだろうというと、目なわけです。僕と同じようにものが見えるわけ。それは彼がもともと見える人間だったのだろうし、いろんなスポーツをやってきたこともあるでしょう。動体視力が異常なほど鋭くて、走っている新幹線から駅に書かれているものがほとんど読めるというし、そうした目を持っているから、僕のスイングからも微妙なニュアンスが読み取れたのかもしれない。しかもそれを口に出すことができる。言葉として表現できるんです」
湯原は渕脇と練習することによって、己が欲している感覚を取り戻そうとした。腰痛があり、足に神経が行かない状態にもかかわらず、気持ちよく振れる感覚を得ようとしたのだ。これまでの経験でなんとなく振ってしまう気持ち悪さを排除し、今得られる最大の感覚で気持ちよく振ろうと努めた。
「渕脇さんに出会ってから、僕のゴルフは、新たな自分なりの感覚でできるようになっていきました。それが’02年の優勝に繋がったわけですけど、その後にまた椎間板ヘルニアが再発してしまったのです。せっかく腰も調子が良くなってきたときだっただけに、またもや谷底に落とされた感じがして深く落ち込みましたが、考えればもはや失うものはなにもないわけです。僕が求めているものは無限にあるわけだし、勝つことだけが毎日のゴルフではない。もちろん試合に出れば勝ちたいし、その気持ちがなくなったら、本当に引退でしょう。でもゴルフというものはそれだけでない。求めるもの、学ぶべきものはまだまだたくさんある。腰痛で以前の感覚を失った僕が、本当の意味で新しい感覚で気持ちよくゴルフができるようになること。それが大切なんです」
渕脇とのトレーニングはもちろん現在も継続されている。今年からはシニアの試合に出場できるし、夢は海外のシニアトーナメントにも向けられている。
「湯原は依然として青い鳥を求めているように言われるかもしれない。いつまでもつかめぬ夢の中の鳥。でも僕はその青い鳥をこれからも追い求めたい。昔のようにいつでも気持ちよく振りたいんです。ヘルニアになった後は新しいやり方でその気持ちよさを手に入れるしかないわけで、それは渕脇さんとトレーニングをすることで、今ではその感覚が理屈として徐々にわかるようになってきている。感性を理論化していつでも可能にしたい。そしてそれは可能な気がするんです。だからゴルフが今、面白くて仕方がないわけです」
天性でプレーをしてきた湯原が、ようやく理論家になろうとしている。天才が理論を追求しているのだ。それほど凄いものはない。プロゴルファー湯原は今や、ドクター湯原、プロフェッサー湯原と呼ぶほうがふさわしい。
ではでは、湯原が考える「気持ちのいいスイング」とはいかなるものなのだろうか。
「ゴルフを始めた子供の頃の気持ちです。楽しくって、心地よくって、気持ちよくってという気持ちですね。それはボールを打ったときに手にくる振動であったり、ボールがフェースに当たってつぶれたときの感じだったり、地面にクラブが振れたときの感じだったり、足が地面を踏みしめる感じだったり……。神経がパパパパパっと電気になってきれいに流れていく感じなんです。血液とかが流れる感じというか。そうしてボールをとらえた瞬間が自分に伝わってきて、自分が満たされればいいんです」
渕脇との練習では、こうしたいい気持ちを味わえるようにどうしたらよいか、話し合う時間を多くとっている。実際にボールを打つ時間より数倍の時間を使う。
湯原はそうした気持ちを味わうために、いろいろな運動器具も使用している。
「一つはオアシスO2、別名ベッカムタンク。早稲田大学に入った斎藤祐樹投手らが使っていたという酸素ボックスです。僕はスキューバダイビングを趣味でやっているのですが、やった後って、凄く体調がいいんです。そこで同様な効果のあるベッカムタンクを購入しました。いい気持ちでボールを打つにはまずいい体調がなければなりませんから。それと僕の友人が開発したスタンディングエアロも購入しました。これは立って台座に乗るわけですが、その台座が8の字を描きながらブルブルと細かく激しく振動します。それでインナーマッスルを鍛えるだけでなく、体のバランスをよくします。腰痛防止にも効果があります。これらを毎日のストレッチやフィットネスに加えて実践しているわけです。こうしたこともあって現在はかなり体調も良くなってきて、気持ちのいいスイングが自然とできるようになってきました」
湯原はこんなことも言う。
「お箸でものをつかむときに、どこにどう力を入れたら上手くつかめるかなんて考えませんよね。ボールを打つのもそのように箸でものをつかむように無意識にやりたいんです。ヘルニアになる前にはできていたことを、もう一度やれるようにしたいんです」
もちろん、我々アベレージゴルファーは、初めからゴルフは意識化のもとでやってきた。無意識にボールを打つことなどこれまでほとんど経験したことはないだろう。考えた末にボールを打っているに違いない。だからこそなかなか上手くいかないともいえるだろう。そして、ヘルニア後の湯原は、生まれて初めて我々のように意識的にボールを打ったのである。それが気持ちが悪い原因であると思う。
となれば、湯原はようやく我々の苦しみを理解できたともいえるだろう。違うのは、再び無意識に、ボールを打とうとしていることだ。我々はそういう感覚で打ったことがないから、それがどういうことかわからないし、わからないからやろうと思ってもできない。一生かかってもできないことだろう。しかし、湯原にはわかっているだけにもの凄く可能性がある。そして彼はそこに残りのゴルフ人生を賭けていると言っても過言ではない。
しかし、無理とは思いながら、湯原に僕らにも気持ちのいいスイングをするコツはないかを聞いてみた。彼は考えた末に一つのことだけを教えてくれた。
「アドレスしたときに、インパクトでそのアドレスに戻れるアドレスにしてみてください。それが気持ちよく打てる初めの一歩だと思いますし、実は気持ちのいいスイングを行うすべてであるのかもしれません」
アドレスの形や方向は、気持ちよく打とうと思えば、自然と正しく行われるはずだと湯原は言いたいのである。打ったときに、最初に作ったアドレスに戻れないアドレスは、形も方向も悪いに違いないのだ。湯原はいいスイングをするために、またナイスショットをするために、方向を正しく取ったり、背筋を伸ばすといった形というものを意識的にこだわること自体が、実は本末転倒だと言いたいのである。気持ちよく打てるときには、何も意識せず、自然とそんなことは正しくできているはずなのである。
つまり、気持ちのいいスイングとは、イメージするショットが無意識のうちに自然とできるということである。
湯原は言った。
「椎間板ヘルニアになったとき、僕は死にたいと思ったし、ゴルフも辞めると言った。でもそれがあったから、今も楽しくゴルフがやれているんです。そうでなければすでに引退していたかもしれない。ヘルニアになって、ゴルフの本質というものを心底考えるようになりました。これまでとは異なる気持ち悪いゴルフでいい結果が出たりすることは一体なんなのか。ならば本来の気持ちのいいスイングはどうしたら作れるのか。ゴルフというものの奥深さに、僕は救われました。ゴルフに生かされたと言ってもいいです」
笑いながら最後に言った。
「ゴルフが僕を生かしてくれたんです」