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チョイス1月号 復活第1章
復活にかける執念

文=大羽賢二、写真=松岡誠一郎/南条善則
ゴルフダイジェスト 2003/1/1


 この試合で予選通過を果たした湯原は、「なんとか復帰できるのかな」という自信を持つまでになった。さらにその年、小樽CCで開かれた日本オープンで、尾崎直道と優勝争いを演じ、2位に食い込む大健闘を見せた。この年のパーオン率は4位。続く00年、01年は1位に輝き、誰の目にも復活を印象づけた。
 だが、この状態にことさらストレスをためていたのが、他でもない湯原自身でもあったのだ。というのも、ヘルニアの後遺症から左足の親指には、まったく力が入らない状態。稀代のショットメーカーだけに、微妙なボールの回転、距離のずれ。イメージ通りにならないギャップが、ストレスとなって湯原に襲い続けたのである。
 「小さい頃からゴルフをやっているために、幸か不幸か微妙なズレを敏感に感じ取ってしまうんです。万全な調子でなくても、グリーンを狙って打つことはできる。パーオン率はそれを証明しているのだけれど、これは自分のゴルフじゃない。優勝争いをできるゴルフじゃないこともまた、自分が一番理解できてしまうんです」
 それは湯原自身を悶々とさせる、新たな悩みのスタートでもあった。そして、これを解消してくれたのも、湯原の体の動きを知り尽くす市川トレーナーと同様、00年暮れ、ある人物との運命的な出会いをする。アメリカ人コーチのジョー・ティールの紹介で、出会った渕脇常弘がその人物であった。 「もう一人、湯原信光がいて、スウィングを見てくれたら、微妙な感覚を思い出せる、すぐに復活できるのに、と思っていた。その時に現れたのが、渕脇さんだったんです」
 渕脇は高校時代、剣道で日本一に輝いた経歴の持ち主。その後、ボクシング転向を経て、海外の有名コーチに師事しゴルフのインストラクターになった人物である。ゴルフのインストラクターを目指した当時、湯原のスウィングを理想モデルにゴルフを学び、そのレッスン書を食い入るように読んだという、不思議な縁で結ばれてもいた。それは湯原が望んでもいた、「もう一人の湯原信光」でもあった。
 「剣道で日本一に輝いた実績も示すように、渕脇さんは動体視力がなによりもすごい。スウィングを見て、すぐにボクのストレスの原因を理解してくれた。グリーンに乗せることはできても、ピンを狙っていくことのできない、その微妙なニュアンスをです。渕脇さんもまた、そうした微妙なニュアンスが、言葉ではなかなか選手に通じないことで悩んでいたようです。ボクにとっては、その安心感が何よりも心の支えになりました」
 また、渕脇の所属する国際環境代表、大原隆は、メンタル面で「勝てる状態」を作り出すことに大きな支えとなった。大原は微弱電流による波動で、精神状態、脳波、ストレス、代謝状況などをすべて数値化。これによって、湯原は睡眠時間から栄養、運動量などをコントロールしていく。さらにクラブについては、ブリヂストンの担当者が湯原の要求に応えようと奮闘した。
「ボクは周囲の人に恵まれている」

と、湯原はいう。市川、渕脇、大原、そしてブリヂストンの担当者は、誰からというわけでもなくいつしか「チーム湯原」を結成していた。昨年暮れ、湯原の下に「3日間だけ時間をくれ」との渕脇から電話が入り、湯原を含めた5人が集い、復活のためのミーティングが開かれたのも、ごくごく自然の流れだった。

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88年肝炎、 93年左ヒザ靭帯断裂、 96年左ヒジ、尿管結石で緊急入院、 99年椎間板ヘルニア・・・。 ゴルフが好きだったから病床は辛かった。 好きだからこそ復活できると信じていた
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