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チョイス1月号 復活第1章
復活にかける執念

文=大羽賢二、写真=松岡誠一郎/南条善則
ゴルフダイジェスト 2003/1/1


輝いていたあの日に戻りたい。
だから耐え、頑張れた

 あれは、ゴルフを始めたばかりの小学生時代のことだった。近所の練習場に陳清波がやってきたことがある。加速しては伸び上がる弾道に、これが本物のゴルフかと魅せられた。勉強をしないとクラブを握らせてくれなかった父親。学校から帰ると、真っ先に宿題を終え、練習場にあるいはクラブ工房へと足を運んだ小学生時代が、懐かしくも輝かしく思い出された。牧野裕とともに慶応に入り、強豪日大を破るのだ、と意気込んでいた中学時代。だが後述する日大ゴルフ部監督の故・竹田昭夫に、「大学生と一緒に練習させてやる」の勧誘の言葉に、慶応義塾高の受験票を破り捨て、日大桜ヶ丘高を選んだあの日。母親に大泣きされながらも、日大を選んだ情熱とはなんだったのだろう。大学卒業を間近にして、やはり故・中部銀治郎との会話も思い出す。「おまえがプロになってしまったら、日本のアマチュアゴルフ界の未来は、いったいどうなってしまうんだ」
 そんな言葉を真摯に受け止めながらも、プロの道を選んだあの日。考えれば考えるほど、湯原の中には、こんな確固たる思いが沸きあがってきた。
「オレはゴルフが誰よりも好きだったんだ。生活のためにゴルフをやるんじゃなく、面白そうだからゴルフにのめり込んだ。あの時代に戻りたい」
 リハビリを開始したのも、ようやく痛みが和らぎ始めたその時期、腰に激痛が走ってから2ヵ月後の時期からである。リハビリといっても、夫人の付き添いで病院内を歩くことから始まり、2~3歩進んではかがみこむ、というところからのスタートだった。ようやく外に出られるようになったときも、夫人と夫人が手にする折り畳みの椅子は、湯原にとってはなくてはならないものだった。歩くよりも、椅子に座ることの方が長いリハビリであったが、すべて「あの頃に戻りたい」という思いからであった。 「オレはゴルフが好きなんだ」
 そうした確固たる思いこそが、その後、長い道のりになるリハビリ生活に耐える、唯一の支えでもあった。
 人との出会いは、復活の大きな条件でもあろう。湯原自身は痛みに耐え切れず、実は体にメスを入れる手術の道を望んでいた。切ってしまえばこの痛みから逃れられるとの思いからだった。最終的にPNFという保存療法を選択したが、それは10年来の付き合いのあるトレーナー、市川繁之の薦めからだった。 「薦めというより絶対にメスを入れないでくれ、という強い姿勢だった。メスを入れても完治しない。だったら、PNFで絶対に治す。そこまでいわれれば、市川さんのその言葉を信じるしかないですから」
 気の遠くなるようなリハビリに耐えられたのは、湯原の体を隅々まで知り尽くしている市川の存在も大きかった。4月(99年)いっぱいで退院、なんとか夫人とともに近所を散歩するところから、6月にはようやくサンドウェッジを振れるまでに回復した。復帰戦は6月末のミズノオープン。「リハビリがてら、試合に出てみれば」という市川の言葉がきっかけだった。
 光が見え始めた。だが、まだ本来の自分ではないことに不満があった。

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しいアイアンクラブが届いた。 打ってみた。 自分のショットイメージを 具現していると 感じるものだった。 その週、10年ぶりに 優勝を果した
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