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チョイス1月号 復活第1章
復活にかける執念

文=大羽賢二、写真=松岡誠一郎/南条善則
ゴルフダイジェスト 2003/1/1

choice2

激痛と痺れ。
そして衰えていく自分に涙が止まらなかった

 95年は、優勝争いにも何度か顔を出し、賞金ランクも20位までに復活した。この年、スポーツ番組のキャスターを降板したのも、なんとか「自分のボールを取り戻したい」との思いからだった。しかし「ごまかしながらのゴルフ」の代償は大きかった。次第に背中の痛みを慢性化させ、左ヒジに激痛を走らせるまでになっていく。
 そして96年1月・・・・・・。
「練習中、背中にバキッという音がした。自分の耳にもはっきりと聞こえました」
 激痛が走り、その場かにかかみこんだまま動けなくなっていた。椎間板ヘルニアの発症だった。ごまかしながらのゴルフのために、酷使し続けた肉体が、とうとう悲鳴を上げたのだった。
 その後、約2ヵ月にわたり、湯原は病院のベッドで過ごすことを余儀なくされた。「もうゴルフ以前の話でした。もう一度ゴルフができるとか、復活するんだという前に、人生で味わったことのない激痛でした。こむら返りというのが、あるじゃないですか。あれが24時間続くものと思ってください。激痛で眠ることもできなければ、食事だって喉を通らない。寝返りを打つことすらできない状態だったんです。」
 自力でトイレに行くこともできなかった。トイレでは一度座れば、立ち上がることすらできなかった。夫人の付き添いなしでは、生きることすらままならない状態だった。
 24時間、痛みと痺れが襲った。ステロイド剤を点滴し続けたのは、「ゴルフ以前」と湯原がいうように、点滴なしでは痛みに耐えられない状態だったためだ。副作用も覚悟の上だった。ゴルフのことを考えるより前に、襲い続ける痛みをどう受け止め、克服するかがすべての問題だった。
 病院に何人もの友人が見舞ってくれては、励ましの言葉を与え続けてくれた。しかし、湯原の耳には慰めしか聞こえなかった。病院を見舞う友人たちの表情には、「湯原はこれで死んでしまうのではないか」という不安が現れていた。それは自分自身が、一番、わかっていたことでもあった。78キロあった体重は15キロ近くも落ち、何より夫人に「もう殺してくれ」と叫び続けたことも二度や三度ではない。 初めて入浴許可が下りた2ヵ月後、風呂の洗い場でとめどなく涙を流す湯原の姿があった。鏡に映る自分の姿。それを正視し、自分の体だと理解するまでに時間がかかった。自慢の筋肉は削げ落ちて、骨と皮だけの姿がそこにあった。「自分はこれで終わってしまうのか。」そう思うと、涙はとめどなく流れ続けた。
 しかし、一方で、湯原はまったく別のことを考えていた。どうして自分はゴルフを始めたのだろう。周囲の反対を押し切ってまで、日大ゴルフ部を選び、そしてプロゴルファーになったのだろう。
 
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